核融合炉もフォトンバッテリーもない現実を直視してみる。
先日買った1/144スケール、GのレコンギスタのYG-11(Gセルフ)です。
核融合炉エンジンじゃなくて、フォトン・バッテリーなる未知のエネルギーで動いてます。
現実世界では原子力が忌避されてしまう時代ですから、アニメにも反映されたのでしょうか? ロマンを感じますね。
現実の宇宙空間って真っ暗なのだろうか。それともちょっとは明るいのかな。
よう分かりませんが宇宙にはロマンがあります。もうちょっと未来に生まれたかった。
きのうは祝日でしたが、友人に誘われて原子力発電環境整備機構:NUMO(ニューモ)の
地層処分意見交換会に足を運びました。経産省が所管の組織だそうです。
地層処分とは、原子力発電所で使い終えた使用済み核燃料を地中深くに埋めて処分しようという試みのことです。北海道では幌延町の深地層研究センターが、そのための研究を行っていますね。
”何の知識がなくても参加できる意見交換会”
とのことで、ゼロベースで有意義な議論話を間近に聞けるだろうと思っていたのですが‥‥‥現実はそうもいきませんでした。
祝日におごそかなホテルの会場を使って開催している時点で、「若者は確実に来ないだろうな」と推測ができたため、参加する市民の方々にどんな思いを持った人が多いかをある程度覚悟して行きましたが、まあ実際に参加してみると、すごいですね。
いくら地層処分が原発関連のテーマで、資源エネルギー庁の人が登壇していたからと言っても、その日の議論とは趣旨が異なる『原子力発電所再稼働の是非』とか『再稼働している中でそんな話をされても”信頼”できない』なんていう
脱線を招く意見や感情論を持ち込むのは、まず議論に参加する側として考えを改めてほしいと思いました。
『こういう場で発言をしても全く反映されない。だからあなたたちを信頼していない』
なんて発言を、貴重な質疑応答の時間でされても、いち参加者という僕の立場からすれば
はっきり申し上げて「そんなの知ったことではない」のです。その言葉の背景にどんな事情があるにせよ。そもそも言うべき相手が違うのではないでしょうか。
特に気になったワードは「信頼」ですね。
誰の視点に立つかは弁論者に任されて、しかも使えば正義的な味が出てくる。
これが本当に多用されていて、使い勝手の良い単語だなと感じました。
この問題について危機感を感じていて、真剣に取り組みたいのであれば
草分けのNPOや市民団体などで中途半端な活動はせずに、議員や行政職員になったほうが遥かに、思いを行動に移していると思います。
コードギアス反逆のルルーシュで例えるなら、枢木スザクのような立場に立つほうが僕はかっこいいと思います。
市民活動の域に留まっているだけで”自分たちは活動的な立場に居て、国民の代弁者として政府に立ち向かっている”と思いこんでしまうのは、非常に残念です。
若い世代が一度は聞いたことがあるであろう言葉で、僕の気持ちを表現するなら
「批判より提案を」がまさに当てはまります。
やる側とやられた側がお互いに責任を押し付けあっていては、いつまで経っても話が前に進みません。国も市民も、お互いに立場がありますからね。
”国に何かしてくれと頼むのではなく、自分が国のために何ができるかを考えよ”と
言っていたジョン・F・ケネディの言葉を、ご年配の方々にぜひ一度考えていただきたい。
あと、若者が参加しているからと言って『若い人からも何か言ってやってよ』と市民の方から僕に同調を求められるのが本当に困りました。
「若者のために」とか「子ども」という言葉が、世間では政治的問題が現れるたびに、使い勝手のよいキーワードとして出てきますが、
当の本人からしたら、自分の意見が年上の世代に拘束されてしまう。
暗黙の了解に従わなければいけないので、ありがた迷惑な面があります。
若者が意見を発信しないから、年寄りは自分たちの意見に同調していると勘違いするのです。
僕はなんだかんだで意見なんて言えませんでした。
公選法が改正されて、18歳以上の若者も選挙権を得ましたが
議論のレベルはまだ「投票に行ったか・行っていないか」の段階です。
このような入り口で満足せずに、もっと踏み込んだ面にも目を向けて、口を開かないとダメですよね。
いままで年上の大人たちに任せてきた面倒事を、自分の頭で考えていかないとね。